真冬のリハーサル

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シャーリイ・ジャクスン『鳥の巣』における建物

この稿には、シャーリイ・ジャクスン 著・北川依子 訳『鳥の巣(The Bird's Nest)』のネタバレが含まれています。ご了承願います。

 

 

博物館は膨大な知識の宝庫として知られていたものの、その土台がかしぎはじめていた。(p.7)

 わざわざ本文中で言及されるように、『鳥の巣』冒頭の博物館関連の描写は、明らかに主人公エリザベス・リッチモンドの精神の危機に対応している。彼女が働いているのは「博物館のもっとも表面に近い領域」である3階の壁際で、「きらりと光る個性」など必要ない事務仕事をしている。そこへ、件の傾きを補修するために工事が入り、エリザベスの机の脇の壁に穴が開けられてしまう。彼女には何の断りもなく。
 この冒頭部では、かなり周到にエリザベスの精神状態と博物館の様子が重ね合わされている。ここを読んだ私は小賢しく「これは博物館の破壊を伴う補修作業と、エリザベスの人格的な危機とその回復が同調しつつ進行していく小説なんだろうな」と考えた。しかし、この予想はあっさり外れてしまう。エリザベスが博物館の仕事を辞めてしまうからである。
 他の人格の主張が大きくなれば仕事を続けられないのは当然といえば当然なのだが、正直いって拍子抜けしてしまった。博物館の具体的な描写は、最終章である「女相続人の命名」まで出てこない。
 それではもう建物――『ずっとお城で暮らしてる』や『丘の屋敷』であれほど存在感があった建物たち――はもう出てこないのかというと当然そんなわけはない。同じく第一章ではアロウ家の壁紙や椅子が「通常は我慢ならないと思われがちな、鉄壁の凡庸さ」を表しているかのごとくに語られる。
 だが、アロウ夫妻はこの小説では脇役だ。エリザベスの治療にあたるライト医師の話をしよう。
 ライト医師の章は2つ(2章と4章)あるが、どちらも彼自身によって記されたミス・R(=エリザベス)の治療記録という体裁になっている。2章の冒頭で、彼は自分の診察室が「臆病な患者をできる限り安心させるように設えられている」ことを得意げに描写している。
 しかし、これが4章になると少し調子が変わっている。エリザベスの病状について、彼女の後見人であるモーゲン・ジョーンズ叔母に説明しなくてはならないライトは、エリザベスの人格のうちの一人であるベッツィに、モーゲン宛てに「都合のよいときに診療所に来てほしい」とメモを頼む。なぜいたずら好きなベッツィに頼んだのかについては、「手紙を郵送するのは嫌」だし、「電話もかけるのも」嫌だと認めたあと、さらに彼はこう綴っている。

(…)自分の陣地外で会話するのはまったく気が進まなかった。話すのであれば、私の本とすばらしく頑丈な机のある、安全なわが診察室でなければ嫌だったのだ。彼女に嘲られるのが嫌だったし、デリケートな話題でもあったから。(p.218)

 ライトはモーゲンのことがどうにも苦手らしく、多重人格の治療を受けている患者の唯一の身よりだというのに、そもそも彼女にほとんど会おうとしない。
 ベッツィによって案の定彼の目論見が失敗したあと、彼はようやくモーゲンの家へ赴くことを決断する。そこで、ライトはモーゲン(とエリザベスが暮らす)家を描写してみせるのだが、ここにライト医師の嫌な性格が非常によく表れている。「作家としての実力」はないから「あえて描写はしない」と記しながら、その後2ページ以上にわたってモーゲン家の外観や調度に対して辛辣な言い回しで描写する(しかも、彼女と比べながら自分の亡き妻のセンスを持ちあげてみせる)。
 特に「彼女の家はといえば、ただ忌まわしいとしか表現のしようがなかった。したがってこう書くだけに留めよう」という文章のあとがすごい。

ミス・ジョーンズは極端に魅力に欠け、ずんぐりして横柄で、大声で笑い、服装はけばけばしく、姪の魅力的な側面だけを考慮すれば、姪とは似ても似つかぬ女だった。(p.237)

 家の話をすると述べておいて、まず最初にモーゲン本人の描写から入るというこの意地の悪さ! 「姪の魅力的な側面だけを考慮」という箇所も相当に無神経だが、それが霞むほどである。そもそもこの手記というか治療記録は、他の医師がエリザベスのような症例に出会ったときのためにつけ始めたはずなのだが、こんな文章を他人が読んだらどう思うのか、もう少し考えたほうがいい。

 ライトの難ありな性格はともかくとして、人物と家の評価が不可分になってしまっているところは注目に値する。良い悪いはさておき、『鳥の巣』において建物と人物の性格は結び付けられてしまっている。
 ところで、ライトにぼろくそにいわれてしまっているモーゲンは自分の家についてどう考えているのか。彼女は自分の模様替えについてのこだわりを次のように語っている。

(…)時代や様式が移り変わるなか、基本的な建築の型としては――つまり、度を越した愛すべき醜さを特徴とする点では――一貫していたし、それについてとやかく言われるのを好まなかった。(p.275)

 特に繰り返し触れられるのは、玄関に置かれたナイジェリアの先祖の像である。これはブラックウッド製の置物らしいのだが、なぜこんなに何度も言及されるのかよくわからない。まるでキーアイテムのように扱われており、クライマックスではなぜかライト医師の意味深な一言(「我々の罪のうちほとんどは、彼といっしょに消えるかもしれない」)をきっかけとして、屋根裏へ片付けられてしまう。
 エリザベスの人格が再び統一されたらしい「女相続人の命名」の章では、モーゲンがエリザベスに配慮して、家具や食器に自分の趣味を反映させるのをやめる(「どぎつい挑むような色や、鋭く突き出す角度や、目障りな模様は、すべてやめにする方針に転換したらしい」)。
 ナイジェリアの像と合わせて考えると、まるで家がエリザベスに悪影響を及ぼしていたようにも読める。とはいえ、モーゲンはエリザベスのために趣味を犠牲にしたし、それは安心して話せる自身の診療室を出てきたライトにもいえる。
 それでは、エリザベスの精神状態が反映されていた博物館はどうなったのか。建物の補修はすでに済んでおり、そのような工事があったことすら知らない人が事務の仕事をしている。それぐらいの時間が経っているということだ。
 エリザベスは、博物館入り口に展示されている「知性による、野蛮な力の征服」を象徴しているとされるザキアス・オーウェン将軍の像に「さようなら」を告げる。
 そのあとに、何度も近くを通ってきたはずなのにほとんど見ることのなかった、「インドの王子が瞑想に耽っている(p.336)」絵画を、深い満足とともに見つめる。この部分は、「ベッツィ」の章で出てきた、母親の過去の発言(「本当に立派な絵が一枚あれば、必要ないわよ」(p.148))を踏まえている。
 つまり、エリザベスの心理を映していた博物館に、以前から「立派な絵」があったということに気がつけたのだから、これからの彼女は自分で自分の行動を決断し、そのうえで幸せへと進んでいけるはず……だろうか。
 そもそもなぜ博物館なのだろう? 博物館は、ライト医師やモーゲン叔母の性格と結びついていたような、自分が所有している建物ではない。友だちも恋人もいない彼女にとって、外界とのほとんど唯一のつながりではあったけれど、すすんで博物館に勤めていたわけではないし(働くようすすめたのはモーゲン)、しかもエリザベスはとっくに仕事を辞めてしまっている。
 彼女の自立を表すのなら、両親の遺産を相続して自分の部屋を借りる、という場面で小説を締めくくるという選択肢もあったはずだ。なぜ、この期に及んで博物館なのだろう?
 
 私は依怙地に考えすぎているのかもしれない。
 やはり、建物の様子と心理が必ずしも明確に対応しているとは限らないのだろうか。博物館はやっぱり博物館でもあるし、家は家は家でもある。それは事実だ。

 こうも考えられる。だとすれば、博物館がエリザベスの精神状態だけでなく、同時に外界すべての象徴でもあった、と。なにせ、「博物館は膨大な知識の宝庫」なのだから。その外界に「立派な絵」が飾られているなら、彼女はどこでだってやっていける、というふうにも解釈できる(しかしそうだとすると、先に述べたオーウェン将軍の像へ別れを告げるシーンがより不穏さを帯びてしまう……)。

 ジャクスンの他作品を読んでいるせいで、どうしても『鳥の巣』を疑いとともに読んでしまっていることは否めない。「女相続人の命名」を素直に読めば、立ち直っっていこうとする前向きな気持ちに溢れた感動的な章だと受け取ることだってできる。この章は、訳者解説で指摘されているとおり、エリザベスが「彼女」としか表現されなくなっているけれど、これも自立していこうとする彼女を母親と同じ名前で記したくないという、ジャクスンの優しさの表れなのかもしれない……。

 わざわざ本文中で「両者 のひずみ(引用者註:博物館の傾きとエリザベスの精神の不均衡のこと)がほぼ同時に始まったことは否めない(p.9)」と記しているのは、私のように深読みする人間を翻弄するためにジャクスンが仕組んだ導線だ、とも考えられる。「こうやって書いておけば、嫌でも建物と人間の心理が結びついているのでは、と疑いながら読んでくれるだろう」というように。

 

 尻切れだけれど、今回はここでおしまいです。「何通りにでも解釈できる小説だよね」という締めくくりにだけはしたくなくて*1このエントリを書き始めたのに、結局そこへ辿りついてしまった……。

 

 

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*1:「たんにジャクスンの筆がまだ未熟だからでしょ」とか「駄作なだけ」とかも書きたくなかった。なぜならそういうことを書いてもつまらないので。