真冬のリハーサル

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植野直花から見る映画『聲の形』

このエントリには映画『聲の形』のネタバレが多分に含まれています。また、具体的に考察の対象としているのは映画版のみであり、原作との相違の確認等はしていませんが、原作付き映画である性質上、一部漫画版のネタバレにもなっています。予めご了承ください。



 この稿では、植野が石田将也ならびに西宮硝子をどう見ているか(またはその二人からどう見られているのか)、そして映画のカメラは植野をどうとらえているのかを巡りながら、映画『聲の形』において植野直花がどういうふうに変わっていったのかについて考えていく。


 交差点に石田将也が立っていて、横断歩道を挟んで向かい側に植野直花が立っている。おそらく、互いが互いの存在には気がついている。信号が青にかわると、二人は横断歩道中ですれ違う。すれ違いざま、まず植野が横目で石田を追いかけるように見る。その視線に気づいたのか、石田が振り返るカットが次に挿入される。もう植野は前を向いていて、二人の視線は交わらない。そのようにして、植野直花の映画『聲の形』は始まる。
 本編が始まり、場面が教室に移ると、植野と石田が隣の席だとわかる。教室に入ってきた西宮硝子を見て石田がシャープペンをノックした様子を、植野は横目で捉えている。
 休み時間、西宮が自分がどう呼ばれているのかを教えている場面では植野と石田の目が合うが(正対はしていない)、それは石田が西宮を盗み見ていた目だ。
 続く授業中は、教室・音楽室どちらも、石田が植野の様子を伺っている。植野が愚痴りながら階段を降りてくるときも、教室で音読をして怒られたあとも同様で、それをきっかけの一つとして石田は西宮を(少なくとも表面的には)おちょくるような行動に出はじめる。
 ここで大切なのは、小学生時代の石田は、どういう感情が伴っているかは別として、植野を気にかけていて、それを元に行動を起こすことがあったという点だ。

 放課後のシーン、仲間に入りたがる西宮に、植野は明確に気がついている。二度も視線を向けるのだから。そのうえで、西宮を遠ざける。

 高校生になると、西宮と石田のコミュニケ―ション方法が主に手話へと移る関係で、この二人は向かいあい目をあわせて会話をする機会が小学生時代よりも格段に増える。逆にいえば、手話(と読唇)という言語作法によってそういう姿勢を半分強制されているともいえる*1。こう考えると、植野(だけではないが)と石田は顔を見あわせずとも声でコミュニケーションがとれるわけで、この二つの関係性は、視覚(手話)と聴覚(声)という点で対照的なものに映る。映画後半では植野の顔にはバツ印が付され(植野は主要登場人物中で顔が隠されている時間がいちばん長い)、石田自身にも視聴者にも彼女の表情が読みとれなくなってしまうことで、この対照関係はより深まる。

 先を急ぎすぎてしまったので、場面を追うのに戻る。時間が進み、高校生になった植野と石田が再会する場面。植野はバイト先である猫喫茶の割引券を石田に手渡す。このときの目も印象的だ。せっかく目が合ったのに、すぐに逸らしてしまう。ここですぐに声をかけることなく、バイト先に来るよう言葉なしで仕向ける選択をしてしまう。
 猫喫茶に植野を訪ねようか悩む石田の想像のなかでは、珍しく植野は正面を向いてこちら(=石田)を見ていて、強い否定の言葉を投げかけてくる。
 実際に猫喫茶へ石田と永束が訪ねてくる場面は、植野にとって厳しいシーンだ。石田は変装をして(この変装は植野に気がつかれないためというより、おそらく猫喫茶を風俗店か何かではと疑っていたからというのが大きい)店へ植野に会いにやってくる。マスクをし、パーカーのフードを被っている男が石田だと、植野は一瞬で見抜く。しかし、そのあと髪を結い、眼鏡をかけて同じく変装して店内に出てきた植野を、石田は見破ることができない。そしてなんと、どうやらそのまま帰ってしまったらしい。
 さらに演出が静かに追い打ちをかけている。時間が少し戻るが、カウンターに隠れた植野が逆に石田の姿をうかがうところ。画像を見てもらえればわかるが、赤いハサミが何か(修正ペンだろうか)で隠れてハートの形になっている。

 糸ではなくそれを断ち切るハサミを恋心や好意の表すために採用しているのも象徴的だが、さらにいうとハートの片側は定規か何かでぼやけてしまっている。この演出にのせて、石田が西宮のためにここへ来ているとも知らない植野が(自分から隠れているのだから当然だが)届かない視線を彼に向けながら「やば……ほんとに来た……」という。
 後日ようやく二人は会話をするが、石田は自転車のサドルの上、植野はその後ろの荷台の上というまたも視線の合いにくい場面設定だ。たとえばこのような縦並びの状態で言語によって会話するのは、西宮にはだいぶ困難だろう。それはある意味では植野の強みでもある。しかし、だからこそ目は合いづらいという側面も持っている。実際、石田はすぐに前へ向き直ってしまう。話をしている最中、一瞬植野の目が潤む。
 横断歩道を渡ったあと、西宮と話す石田を植野は横目で眺める。西宮の補聴器を取った植野と、それを諫める石田の目があうが、ここでも植野が半ば振り返り気味で応じる。そのあと、現在の西宮と石田の関係を笑うところでは、植野は画面に背を向けてしまっている。普通に考えればどちらかの顔を見ているはずだが、それが視聴者にわからない。上半身を屈めて植野は笑うが、目元は長い髪に隠れている。*2

 遊園地では、いつのまにか顔にバツ印がついている。これは間もなく取れるのだが、石田からすれば余計なお節介をしてしまったせいで、すぐにまた戻ってしまう。西宮との観覧車のシーンは結弦の企みによって録画されたが、そこでも植野の目は画面から切れてしまって、石田(と結弦と視聴者)は彼女の表情を見ることができない。あるのは声だけだ。*3
 以降は、病院の外で西宮を問い詰めるシーンまで植野の目はバツで隠れっぱなしだ。それによって演出も変化する。遊園地以降、植野の姿はロングショットや後ろ姿、頭部が切れて身体だけ映っているものが主となる。アップになっても口から下しか映らない。


観覧車に乗るときも後ろ姿


橋での場面。アップになってもアニメーションする口もとが中心の構図。仮にバツ印がなくとも、目は画面の上方に切れてしまっている

 唯一、目がはっきりと見える(というより覗ける)シーンは、橋に集まってくるその瞬間くらいだ。顔の大部分が隠されているのだから、これらは妥当な演出ではある。

 横目だろうが窃視だろうが、見ているのなら見返される可能性があった。この稿の冒頭で示した、小学生のときの横断歩道のシーンのように。しかし、相手(石田)が頑なに目を覆い続けるという選択をしてしまえば、偶然見返されることだってなくなってしまう。石田は植野を見ようとしないし、そのため視聴者にも植野の顔が見えない。
「植野は言葉と感情がそれほど乖離していないのだから別に問題ないだろう」と考える人がいるなら*4、先述した石田との再会シーンを思い出してほしい。もしかしたら橋での諍いの場面でも、わずかに彼女の目が潤むことがあったかもしれないが、それを確認する術はない。

怪我を負った石田を、植野は熱心に看病する。昏睡している彼には当然植野の献身が見えない。それでも植野は病院へ通い続ける。西宮もまた、植野の元へ何度もやってくる。西宮を無視し続けていた植野が、考えを改めるきっかけになるのは傘だ。病院からの帰り、俯きがちに歩く植野へ、西宮によって後ろから傘がさしかけられる。
 眠り続ける相手にし続ける甲斐甲斐しい世話と、死角である背中からさしかけられる傘。それは視界の外にあったけれど、自分(前者は石田、後者は植野)にプラスの影響を与えてくれるものだ。植野の行為も西宮の行為も、まったくの親切心からのみ出たものではないが、それでも響きあうこの二つがそれぞれに事態を打開していく契機になる。植野は西宮を無視するのをやめるし、石田の対植野バツ印がとれるのも、退院後に石田母から石田へかけられる「あの子、ずーっと将ちゃんの看病してくれてたのよ」というセリフをきっかけにして二人が向かい合うからだ。公園で石田は顔をあげて植野を見る。


バツ印のあいだから植野の目が覗いており、表情もほぼ見て取れる

 エンディングの文化祭、植野は西宮に、頑なに使うのを拒否していた手話を使う*5。物理的にも精神的にも、植野が西宮へ正面から向き合うことを示す場面だ。そして本当にラスト、石田が「ちゃんと生きていくための産声を上げ」*6たあと、主要登場人物が順にアップで大写しになっていく。植野のカットは、さしむかいからカメラ――というか石田を見つめているものだ。同じ高さに立って自分より背の高い石田を見ているからこそ、彼女は上目遣いぎみなのだ。それは当然、横目でも窃視でもない。
 これが実際のシーンなのか石田のイメージなのか、それとも視聴者にのみ見えるイメージとしてスタッフに設定されたたものなのかはわからないが、植野直花というキャラクターが映画『聲の形』でエンディングを迎えるにあたって、これほど順当で誠実なカットはありえないだろう。他人からの視線を恐れるようになっていた石田が、いちばん長く顔を見ることを拒否していた植野の目を真正面から見返すのだから。それは当然、植野自身も変わらなくては達成されなかったものだ。



本稿を書くにあたって映画『聲の形』((c)大今良時講談社映画聲の形製作委員会)より、スクリーンショットと文字起こしにより引用を行った。

*1:頑なに手話を使おうとしない植野も、西宮と会話をするときはかなり近寄って真正面から話しかけている(高校生になって横断歩道で再会したときや、遊園地で観覧車に誘うときなど)

*2:この髪で植野の目が隠れている構図は劇中で何度か繰り返される

*3:そもそもなぜ顔にバツ印なのか、といえばそれは石田が他人の視線に恐怖を感じているのと、声を完全に遮断するのは見ないようにするのと比べて困難だからだろう

*4:私としてはそう考えない

*5:ほとんど終盤まで、映画『聲の形』は同じ過ちを繰り返してしまう話だ。川への飛び込みも、もろもろのいじめも反復される。「高校生になっても、結局小学生のころから変わっていない」ということがネガティブに描かれている。エンディングである文化祭の日に、まさにその会話がなされた橋でのできごとを、永束は「あんなこと何度だってあるさ」という。「辛いことが何度でもあるのが人生だから諦めろ」という意味ではない。その都度やり直していけばいいということだ。さんざん負の側面を強調されてきた反復が、ここで許しを与えられる。トイレから出た石田に、川井が千羽鶴を渡す。見舞いの千羽鶴を折るのも反復的な行為だ。それに対して石田は「うれしい」という(たとえそれが千羽という目標は達成していなかったのだとしても)。繰り返しが明るい感情へつながることが示される。そして、極めつけが植野と西宮のやりとりだ。植野がようやく手話を使ってくれたことが(たとえそれが「ばか」と伝えているのだとしても)うれしくて、西宮は何度も「ばか」を繰り返す。繰り返してやがて笑う。反復は笑いの基本だ。ここに至って、映画『聲の形』における反復はプラスの機能を完全に回復した。繰り返してしまうことは、何も愚かさ一辺倒ではないのだと最後に伝えてくるこの肯定の姿勢……(「そんなんじゃ結局何の解決にもならないじゃん」と思う人もいるかもしれない)。

*6:映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(3/4)