真冬のリハーサル

小説、映画、ゲーム、そのほか

シャーリイ・ジャクスン『鳥の巣』における建物

この稿には、シャーリイ・ジャクスン 著・北川依子 訳『鳥の巣(The Bird's Nest)』のネタバレが含まれています。ご了承願います。

 

 

博物館は膨大な知識の宝庫として知られていたものの、その土台がかしぎはじめていた。(p.7)

 わざわざ本文中で言及されるように、『鳥の巣』冒頭の博物館関連の描写は、明らかに主人公エリザベス・リッチモンドの精神の危機に対応している。彼女が働いているのは「博物館のもっとも表面に近い領域」である3階の壁際で、「きらりと光る個性」など必要ない事務仕事をしている。そこへ、件の傾きを補修するために工事が入り、エリザベスの机の脇の壁に穴が開けられてしまう。彼女には何の断りもなく。
 この冒頭部では、かなり周到にエリザベスの精神状態と博物館の様子が重ね合わされている。ここを読んだ私は小賢しく「これは博物館の破壊を伴う補修作業と、エリザベスの人格的な危機とその回復が同調しつつ進行していく小説なんだろうな」と考えた。しかし、この予想はあっさり外れてしまう。エリザベスが博物館の仕事を辞めてしまうからである。
 他の人格の主張が大きくなれば仕事を続けられないのは当然といえば当然なのだが、正直いって拍子抜けしてしまった。博物館の具体的な描写は、最終章である「女相続人の命名」まで出てこない。
 それではもう建物――『ずっとお城で暮らしてる』や『丘の屋敷』であれほど存在感があった建物たち――はもう出てこないのかというと当然そんなわけはない。同じく第一章ではアロウ家の壁紙や椅子が「通常は我慢ならないと思われがちな、鉄壁の凡庸さ」を表しているかのごとくに語られる。
 だが、アロウ夫妻はこの小説では脇役だ。エリザベスの治療にあたるライト医師の話をしよう。
 ライト医師の章は2つ(2章と4章)あるが、どちらも彼自身によって記されたミス・R(=エリザベス)の治療記録という体裁になっている。2章の冒頭で、彼は自分の診察室が「臆病な患者をできる限り安心させるように設えられている」ことを得意げに描写している。
 しかし、これが4章になると少し調子が変わっている。エリザベスの病状について、彼女の後見人であるモーゲン・ジョーンズ叔母に説明しなくてはならないライトは、エリザベスの人格のうちの一人であるベッツィに、モーゲン宛てに「都合のよいときに診療所に来てほしい」とメモを頼む。なぜいたずら好きなベッツィに頼んだのかについては、「手紙を郵送するのは嫌」だし、「電話もかけるのも」嫌だと認めたあと、さらに彼はこう綴っている。

(…)自分の陣地外で会話するのはまったく気が進まなかった。話すのであれば、私の本とすばらしく頑丈な机のある、安全なわが診察室でなければ嫌だったのだ。彼女に嘲られるのが嫌だったし、デリケートな話題でもあったから。(p.218)

 ライトはモーゲンのことがどうにも苦手らしく、多重人格の治療を受けている患者の唯一の身よりだというのに、そもそも彼女にほとんど会おうとしない。
 ベッツィによって案の定彼の目論見が失敗したあと、彼はようやくモーゲンの家へ赴くことを決断する。そこで、ライトはモーゲン(とエリザベスが暮らす)家を描写してみせるのだが、ここにライト医師の嫌な性格が非常によく表れている。「作家としての実力」はないから「あえて描写はしない」と記しながら、その後2ページ以上にわたってモーゲン家の外観や調度に対して辛辣な言い回しで描写する(しかも、彼女と比べながら自分の亡き妻のセンスを持ちあげてみせる)。
 特に「彼女の家はといえば、ただ忌まわしいとしか表現のしようがなかった。したがってこう書くだけに留めよう」という文章のあとがすごい。

ミス・ジョーンズは極端に魅力に欠け、ずんぐりして横柄で、大声で笑い、服装はけばけばしく、姪の魅力的な側面だけを考慮すれば、姪とは似ても似つかぬ女だった。(p.237)

 家の話をすると述べておいて、まず最初にモーゲン本人の描写から入るというこの意地の悪さ! 「姪の魅力的な側面だけを考慮」という箇所も相当に無神経だが、それが霞むほどである。そもそもこの手記というか治療記録は、他の医師がエリザベスのような症例に出会ったときのためにつけ始めたはずなのだが、こんな文章を他人が読んだらどう思うのか、もう少し考えたほうがいい。

 ライトの難ありな性格はともかくとして、人物と家の評価が不可分になってしまっているところは注目に値する。良い悪いはさておき、『鳥の巣』において建物と人物の性格は結び付けられてしまっている。
 ところで、ライトにぼろくそにいわれてしまっているモーゲンは自分の家についてどう考えているのか。彼女は自分の模様替えについてのこだわりを次のように語っている。

(…)時代や様式が移り変わるなか、基本的な建築の型としては――つまり、度を越した愛すべき醜さを特徴とする点では――一貫していたし、それについてとやかく言われるのを好まなかった。(p.275)

 特に繰り返し触れられるのは、玄関に置かれたナイジェリアの先祖の像である。これはブラックウッド製の置物らしいのだが、なぜこんなに何度も言及されるのかよくわからない。まるでキーアイテムのように扱われており、クライマックスではなぜかライト医師の意味深な一言(「我々の罪のうちほとんどは、彼といっしょに消えるかもしれない」)をきっかけとして、屋根裏へ片付けられてしまう。
 エリザベスの人格が再び統一されたらしい「女相続人の命名」の章では、モーゲンがエリザベスに配慮して、家具や食器に自分の趣味を反映させるのをやめる(「どぎつい挑むような色や、鋭く突き出す角度や、目障りな模様は、すべてやめにする方針に転換したらしい」)。
 ナイジェリアの像と合わせて考えると、まるで家がエリザベスに悪影響を及ぼしていたようにも読める。とはいえ、モーゲンはエリザベスのために趣味を犠牲にしたし、それは安心して話せる自身の診療室を出てきたライトにもいえる。
 それでは、エリザベスの精神状態が反映されていた博物館はどうなったのか。建物の補修はすでに済んでおり、そのような工事があったことすら知らない人が事務の仕事をしている。それぐらいの時間が経っているということだ。
 エリザベスは、博物館入り口に展示されている「知性による、野蛮な力の征服」を象徴しているとされるザキアス・オーウェン将軍の像に「さようなら」を告げる。
 そのあとに、何度も近くを通ってきたはずなのにほとんど見ることのなかった、「インドの王子が瞑想に耽っている(p.336)」絵画を、深い満足とともに見つめる。この部分は、「ベッツィ」の章で出てきた、母親の過去の発言(「本当に立派な絵が一枚あれば、必要ないわよ」(p.148))を踏まえている。
 つまり、エリザベスの心理を映していた博物館に、以前から「立派な絵」があったということに気がつけたのだから、これからの彼女は自分で自分の行動を決断し、そのうえで幸せへと進んでいけるはず……だろうか。
 そもそもなぜ博物館なのだろう? 博物館は、ライト医師やモーゲン叔母の性格と結びついていたような、自分が所有している建物ではない。友だちも恋人もいない彼女にとって、外界とのほとんど唯一のつながりではあったけれど、すすんで博物館に勤めていたわけではないし(働くようすすめたのはモーゲン)、しかもエリザベスはとっくに仕事を辞めてしまっている。
 彼女の自立を表すのなら、両親の遺産を相続して自分の部屋を借りる、という場面で小説を締めくくるという選択肢もあったはずだ。なぜ、この期に及んで博物館なのだろう?
 
 私は依怙地に考えすぎているのかもしれない。
 やはり、建物の様子と心理が必ずしも明確に対応しているとは限らないのだろうか。博物館はやっぱり博物館でもあるし、家は家は家でもある。それは事実だ。

 こうも考えられる。だとすれば、博物館がエリザベスの精神状態だけでなく、同時に外界すべての象徴でもあった、と。なにせ、「博物館は膨大な知識の宝庫」なのだから。その外界に「立派な絵」が飾られているなら、彼女はどこでだってやっていける、というふうにも解釈できる(しかしそうだとすると、先に述べたオーウェン将軍の像へ別れを告げるシーンがより不穏さを帯びてしまう……)。

 ジャクスンの他作品を読んでいるせいで、どうしても『鳥の巣』を疑いとともに読んでしまっていることは否めない。「女相続人の命名」を素直に読めば、立ち直っっていこうとする前向きな気持ちに溢れた感動的な章だと受け取ることだってできる。この章は、訳者解説で指摘されているとおり、エリザベスが「彼女」としか表現されなくなっているけれど、これも自立していこうとする彼女を母親と同じ名前で記したくないという、ジャクスンの優しさの表れなのかもしれない……。

 わざわざ本文中で「両者 のひずみ(引用者註:博物館の傾きとエリザベスの精神の不均衡のこと)がほぼ同時に始まったことは否めない(p.9)」と記しているのは、私のように深読みする人間を翻弄するためにジャクスンが仕組んだ導線だ、とも考えられる。「こうやって書いておけば、嫌でも建物と人間の心理が結びついているのでは、と疑いながら読んでくれるだろう」というように。

 

 尻切れだけれど、今回はここでおしまいです。「何通りにでも解釈できる小説だよね」という締めくくりにだけはしたくなくて*1このエントリを書き始めたのに、結局そこへ辿りついてしまった……。

 

 

鳥の巣 (DALKEY ARCHIVE) | シャーリイ・ジャクスン, 北川依子 |本 | 通販 | Amazon

*1:「たんにジャクスンの筆がまだ未熟だからでしょ」とか「駄作なだけ」とかも書きたくなかった。なぜならそういうことを書いてもつまらないので。

植野直花から見る映画『聲の形』

このエントリには映画『聲の形』のネタバレが多分に含まれています。また、具体的に考察の対象としているのは映画版のみであり、原作との相違の確認等はしていませんが、原作付き映画である性質上、一部漫画版のネタバレにもなっています。予めご了承ください。



 この稿では、植野が石田将也ならびに西宮硝子をどう見ているか(またはその二人からどう見られているのか)、そして映画のカメラは植野をどうとらえているのかを巡りながら、映画『聲の形』において植野直花がどういうふうに変わっていったのかについて考えていく。


 交差点に石田将也が立っていて、横断歩道を挟んで向かい側に植野直花が立っている。おそらく、互いが互いの存在には気がついている。信号が青にかわると、二人は横断歩道中ですれ違う。すれ違いざま、まず植野が横目で石田を追いかけるように見る。その視線に気づいたのか、石田が振り返るカットが次に挿入される。もう植野は前を向いていて、二人の視線は交わらない。そのようにして、植野直花の映画『聲の形』は始まる。
 本編が始まり、場面が教室に移ると、植野と石田が隣の席だとわかる。教室に入ってきた西宮硝子を見て石田がシャープペンをノックした様子を、植野は横目で捉えている。
 休み時間、西宮が自分がどう呼ばれているのかを教えている場面では植野と石田の目が合うが(正対はしていない)、それは石田が西宮を盗み見ていた目だ。
 続く授業中は、教室・音楽室どちらも、石田が植野の様子を伺っている。植野が愚痴りながら階段を降りてくるときも、教室で音読をして怒られたあとも同様で、それをきっかけの一つとして石田は西宮を(少なくとも表面的には)おちょくるような行動に出はじめる。
 ここで大切なのは、小学生時代の石田は、どういう感情が伴っているかは別として、植野を気にかけていて、それを元に行動を起こすことがあったという点だ。

 放課後のシーン、仲間に入りたがる西宮に、植野は明確に気がついている。二度も視線を向けるのだから。そのうえで、西宮を遠ざける。

 高校生になると、西宮と石田のコミュニケ―ション方法が主に手話へと移る関係で、この二人は向かいあい目をあわせて会話をする機会が小学生時代よりも格段に増える。逆にいえば、手話(と読唇)という言語作法によってそういう姿勢を半分強制されているともいえる*1。こう考えると、植野(だけではないが)と石田は顔を見あわせずとも声でコミュニケーションがとれるわけで、この二つの関係性は、視覚(手話)と聴覚(声)という点で対照的なものに映る。映画後半では植野の顔にはバツ印が付され(植野は主要登場人物中で顔が隠されている時間がいちばん長い)、石田自身にも視聴者にも彼女の表情が読みとれなくなってしまうことで、この対照関係はより深まる。

 先を急ぎすぎてしまったので、場面を追うのに戻る。時間が進み、高校生になった植野と石田が再会する場面。植野はバイト先である猫喫茶の割引券を石田に手渡す。このときの目も印象的だ。せっかく目が合ったのに、すぐに逸らしてしまう。ここですぐに声をかけることなく、バイト先に来るよう言葉なしで仕向ける選択をしてしまう。
 猫喫茶に植野を訪ねようか悩む石田の想像のなかでは、珍しく植野は正面を向いてこちら(=石田)を見ていて、強い否定の言葉を投げかけてくる。
 実際に猫喫茶へ石田と永束が訪ねてくる場面は、植野にとって厳しいシーンだ。石田は変装をして(この変装は植野に気がつかれないためというより、おそらく猫喫茶を風俗店か何かではと疑っていたからというのが大きい)店へ植野に会いにやってくる。マスクをし、パーカーのフードを被っている男が石田だと、植野は一瞬で見抜く。しかし、そのあと髪を結い、眼鏡をかけて同じく変装して店内に出てきた植野を、石田は見破ることができない。そしてなんと、どうやらそのまま帰ってしまったらしい。
 さらに演出が静かに追い打ちをかけている。時間が少し戻るが、カウンターに隠れた植野が逆に石田の姿をうかがうところ。画像を見てもらえればわかるが、赤いハサミが何か(修正ペンだろうか)で隠れてハートの形になっている。

 糸ではなくそれを断ち切るハサミを恋心や好意の表すために採用しているのも象徴的だが、さらにいうとハートの片側は定規か何かでぼやけてしまっている。この演出にのせて、石田が西宮のためにここへ来ているとも知らない植野が(自分から隠れているのだから当然だが)届かない視線を彼に向けながら「やば……ほんとに来た……」という。
 後日ようやく二人は会話をするが、石田は自転車のサドルの上、植野はその後ろの荷台の上というまたも視線の合いにくい場面設定だ。たとえばこのような縦並びの状態で言語によって会話するのは、西宮にはだいぶ困難だろう。それはある意味では植野の強みでもある。しかし、だからこそ目は合いづらいという側面も持っている。実際、石田はすぐに前へ向き直ってしまう。話をしている最中、一瞬植野の目が潤む。
 横断歩道を渡ったあと、西宮と話す石田を植野は横目で眺める。西宮の補聴器を取った植野と、それを諫める石田の目があうが、ここでも植野が半ば振り返り気味で応じる。そのあと、現在の西宮と石田の関係を笑うところでは、植野は画面に背を向けてしまっている。普通に考えればどちらかの顔を見ているはずだが、それが視聴者にわからない。上半身を屈めて植野は笑うが、目元は長い髪に隠れている。*2

 遊園地では、いつのまにか顔にバツ印がついている。これは間もなく取れるのだが、石田からすれば余計なお節介をしてしまったせいで、すぐにまた戻ってしまう。西宮との観覧車のシーンは結弦の企みによって録画されたが、そこでも植野の目は画面から切れてしまって、石田(と結弦と視聴者)は彼女の表情を見ることができない。あるのは声だけだ。*3
 以降は、病院の外で西宮を問い詰めるシーンまで植野の目はバツで隠れっぱなしだ。それによって演出も変化する。遊園地以降、植野の姿はロングショットや後ろ姿、頭部が切れて身体だけ映っているものが主となる。アップになっても口から下しか映らない。


観覧車に乗るときも後ろ姿


橋での場面。アップになってもアニメーションする口もとが中心の構図。仮にバツ印がなくとも、目は画面の上方に切れてしまっている

 唯一、目がはっきりと見える(というより覗ける)シーンは、橋に集まってくるその瞬間くらいだ。顔の大部分が隠されているのだから、これらは妥当な演出ではある。

 横目だろうが窃視だろうが、見ているのなら見返される可能性があった。この稿の冒頭で示した、小学生のときの横断歩道のシーンのように。しかし、相手(石田)が頑なに目を覆い続けるという選択をしてしまえば、偶然見返されることだってなくなってしまう。石田は植野を見ようとしないし、そのため視聴者にも植野の顔が見えない。
「植野は言葉と感情がそれほど乖離していないのだから別に問題ないだろう」と考える人がいるなら*4、先述した石田との再会シーンを思い出してほしい。もしかしたら橋での諍いの場面でも、わずかに彼女の目が潤むことがあったかもしれないが、それを確認する術はない。

怪我を負った石田を、植野は熱心に看病する。昏睡している彼には当然植野の献身が見えない。それでも植野は病院へ通い続ける。西宮もまた、植野の元へ何度もやってくる。西宮を無視し続けていた植野が、考えを改めるきっかけになるのは傘だ。病院からの帰り、俯きがちに歩く植野へ、西宮によって後ろから傘がさしかけられる。
 眠り続ける相手にし続ける甲斐甲斐しい世話と、死角である背中からさしかけられる傘。それは視界の外にあったけれど、自分(前者は石田、後者は植野)にプラスの影響を与えてくれるものだ。植野の行為も西宮の行為も、まったくの親切心からのみ出たものではないが、それでも響きあうこの二つがそれぞれに事態を打開していく契機になる。植野は西宮を無視するのをやめるし、石田の対植野バツ印がとれるのも、退院後に石田母から石田へかけられる「あの子、ずーっと将ちゃんの看病してくれてたのよ」というセリフをきっかけにして二人が向かい合うからだ。公園で石田は顔をあげて植野を見る。


バツ印のあいだから植野の目が覗いており、表情もほぼ見て取れる

 エンディングの文化祭、植野は西宮に、頑なに使うのを拒否していた手話を使う*5。物理的にも精神的にも、植野が西宮へ正面から向き合うことを示す場面だ。そして本当にラスト、石田が「ちゃんと生きていくための産声を上げ」*6たあと、主要登場人物が順にアップで大写しになっていく。植野のカットは、さしむかいからカメラ――というか石田を見つめているものだ。同じ高さに立って自分より背の高い石田を見ているからこそ、彼女は上目遣いぎみなのだ。それは当然、横目でも窃視でもない。
 これが実際のシーンなのか石田のイメージなのか、それとも視聴者にのみ見えるイメージとしてスタッフに設定されたたものなのかはわからないが、植野直花というキャラクターが映画『聲の形』でエンディングを迎えるにあたって、これほど順当で誠実なカットはありえないだろう。他人からの視線を恐れるようになっていた石田が、いちばん長く顔を見ることを拒否していた植野の目を真正面から見返すのだから。それは当然、植野自身も変わらなくては達成されなかったものだ。



本稿を書くにあたって映画『聲の形』((c)大今良時講談社映画聲の形製作委員会)より、スクリーンショットと文字起こしにより引用を行った。

*1:頑なに手話を使おうとしない植野も、西宮と会話をするときはかなり近寄って真正面から話しかけている(高校生になって横断歩道で再会したときや、遊園地で観覧車に誘うときなど)

*2:この髪で植野の目が隠れている構図は劇中で何度か繰り返される

*3:そもそもなぜ顔にバツ印なのか、といえばそれは石田が他人の視線に恐怖を感じているのと、声を完全に遮断するのは見ないようにするのと比べて困難だからだろう

*4:私としてはそう考えない

*5:ほとんど終盤まで、映画『聲の形』は同じ過ちを繰り返してしまう話だ。川への飛び込みも、もろもろのいじめも反復される。「高校生になっても、結局小学生のころから変わっていない」ということがネガティブに描かれている。エンディングである文化祭の日に、まさにその会話がなされた橋でのできごとを、永束は「あんなこと何度だってあるさ」という。「辛いことが何度でもあるのが人生だから諦めろ」という意味ではない。その都度やり直していけばいいということだ。さんざん負の側面を強調されてきた反復が、ここで許しを与えられる。トイレから出た石田に、川井が千羽鶴を渡す。見舞いの千羽鶴を折るのも反復的な行為だ。それに対して石田は「うれしい」という(たとえそれが千羽という目標は達成していなかったのだとしても)。繰り返しが明るい感情へつながることが示される。そして、極めつけが植野と西宮のやりとりだ。植野がようやく手話を使ってくれたことが(たとえそれが「ばか」と伝えているのだとしても)うれしくて、西宮は何度も「ばか」を繰り返す。繰り返してやがて笑う。反復は笑いの基本だ。ここに至って、映画『聲の形』における反復はプラスの機能を完全に回復した。繰り返してしまうことは、何も愚かさ一辺倒ではないのだと最後に伝えてくるこの肯定の姿勢……(「そんなんじゃ結局何の解決にもならないじゃん」と思う人もいるかもしれない)。

*6:映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!(3/4)

デレステのメモリアルコミュ1における『アイドル』

はじめに

 『アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ』内には、メモリアルコミュというアイドルたちの歩みを閲覧できるコンテンツがある。メモリアルコミュは時系列順であり、したがってコミュ1は彼女たちがどのようにしてアイドルになるに至ったかが描写されている。
 この記事では、まずそのコミュ1内に『アイドル』やそれにまつわる単語(『事務所』や『プロデューサー』など)が出てくるのかどうかを調べ、もし無い場合には代わりになるような描写がなされているかどうかを見ている。
 なぜこんな重箱の隅つつきしようと考えたのかというと、たんに自分が贔屓しているアイドル*1のコミュに、『アイドル』という言葉がないことに気がついたからでしかない。また、そのことに怒りや不満を覚えているわけではなく*2、興味から行ったことなので、悪しからず受け取っていただけると幸いである。
 すべてのコミュを再生して目視で確認したため、誤りや抜けを含む可能性がある。不備に気づかれた方はコメントなどで指摘していただけるとうれしい。なお、今回はmobageで配信されている『アイドルマスターシンデレラガールズ』内の設定やテキストについてはあえて問題にしていない*3。そちらもご了承いただきたい。

本題

 結論から言うと、7名のアイドルがこれに該当する。以下でそれぞれ詳しく見ていく。

①持田亜里沙

 彼女のコミュ1の舞台は公園である。そこでケンカをしている子どもたちをなだめたりいっしょに歌ったりしていたら、横で見ていたプロデューサーに「大きなお友だちとも、お友だちに」などと勧誘される。テクスト内では『アイドル』という言葉も、『プロデューサー』『プロデュース』『芸能』『事務所』などという言葉も出てこない。
 コミュの最後は亜里沙の「お話、聞かせてもらってもいいですか?」という言葉なので、プロデューサーが自身の身分を明かすのも、どういった勧誘だったのかを詳しく伝えるのも、この後に行われると推測される。

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持田亜里沙メモリアルコミュ1より

②梅木音葉

 音葉はすでにプロデューサーのとは別の事務所に所属しており、コミュ1の舞台も歌番組の収録である。しかし、コーラスとして精確な音程だけを求められる現状や、現プロダクション社長の音楽への不誠実な態度に不満を覚え、スカウト(というかおそらく引き抜き)に応じる。
 ここだけを見ると、音葉がきちんとアイドルとしてスカウトされていると理解していたのか不明だが、Rの特訓エピソードで芸能界へ入った理由を、「アイドルだったら、いろんな人に歌を聴いてもらえると思」ったと説明しているため、以前からアイドル志望だったのではないかと思われる。

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梅木音葉Rの特訓エピソードより

③服部瞳子

 瞳子が働いている喫茶店に、プロデューサーが何度も何度もやってくる。瞳子のよく通る声から、過去に芸能人だったのではと推測し、スカウトしにきたという流れ。自分を信じきれない瞳子は何度か断るが、やがてもう一度芸能界に戻る決断をする。
『アイドル』という直接的な単語は出てこないが、『芸能活動』『芸能事務所』『プロデューサー』『芸能界』は出てくる。
 また、Nのプロフィールのセリフに「芸能活動をしていたこともあったけれど(…)そんな私をアイドルにするの?」とあるため、以前活動していたときは、芸能人であってもアイドルではなかったのかもしれない。*4

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服部瞳子のメモリアルコミュ1より

④ヘレン

 7人のうちで唯一オーディションで採用が決まるのが彼女。オーディションに来ておいて、これがアイドルのそれだとわかっていないということはない……と思いたいが、デレステでは「歌手部門に応募したのになぜかアイドルオーディションに迷いこんで一曲歌ったと思ったら合格して本人もそれを受け入れる」*5というような展開があるから、確実なことは言えない。
 とはいえ、N+の特訓エピソードでヘレン自身が「なぜ人はアイドルになるのか」について言及しているため、おそらくちゃんと把握しているのだろう。

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ヘレンNの特訓エピソードより

⑤水木聖來

 夜に街角でストリートダンスの練習をしていたところをプロデューサーに話しかけられる。彼女のコミュ1においては、『アイドル』やそれに関する言葉は出てこない。
 そこまでは持田亜里沙と同じだが、亜里沙がプロデューサーに話を聞かせてもらえないか頼むのでコミュが終わるのに対し、聖來の場合は「(ステージに立つのを)もう諦めない」と決断して締めくくられる点が異なる。
『作中のプロデューサーは、街角からステージへの移動中に自分の職業やスカウトについて説明をした』というのが妥当な落としどころだろうか。*6
 ちなみにNの親愛度アップ時のコメントでも、N+の特訓エピソードでも、『アイドル』というワードは出てこない(ホームやルームでは出てくる)。*7

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水木聖來のメモリアルコミュ1より

⑥和久井留美

 バーでプロデューサーから話を聞かされ、後日プロダクションを自ら訪ねるというパターン。酔ってはいるものの、名刺をもらったことで、話しかけてきた相手が『芸能事務所のプロデューサー』であり、これが『スカウト』だとわかっている。
 城ケ崎美嘉や木村夏樹のコミュ1を見る限り、作中の事務所にはモデル部門や歌手部門もあるらしく、酔っていたときにアイドルとしてのスカウトだとわかっていたかは不明だが、翌日話を聞きに訪ねて来たその後には、きちんと説明を受けたと思われる。*8

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和久井留美のメモリアルコミュ1より

⑦北川真尋

 遅刻しそうになり走っていたところ、プロデューサーにぶつかってしまう。そのときにどさくさに紛れて名刺を渡され、数日後に真尋からプロダクションへ「面白い話」を聞きに赴く……というコミカル寄りの展開なのだが、さすがになにもわからずに事務所を訪ねるまでの行動は取らないと思われる。
 ホームのセリフに「ごらんのとおり、普通の女子だよねー。アイドルになろうってだけで」とあるため、文面どおりに取るならアイドルになった(=事務所を訪れた)のは自分の意志によるものということになる。

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北川真尋のメモリアルコミュ1より

 以上となる。
 本当はこれを調べた副産物として、メモリアルコミュ1における『オーディション』『スカウト』『養成所生からの昇格』がそれぞれどれくらいの割合なのかを出そうと思っていたのだが、自身の見積もりの甘さ*9により詳細な数字は出せない。そのうえで極めて雑な物言いが許されるなら、デレステでは7割以上がスカウトによってアイドルの道を歩み始めている。『養成所からの昇格』はごく少数だった。

*1:水木聖來

*2:疑わしい

*3:両者間で一部に設定の異同が見られるアイドルがいるので、混乱を避けるため

*4:繰り返しになるが、『デレステ』に限った話

*5:木村夏樹のメモリアルコミュ1

*6:もしこの説明がなかったとしたら、コミュ1終了時点での聖來はダンサーとしてスカウトされているのか、それともアイドルとしてスカウトされているのか不明なまま、勢いで「もう諦めない」と言ってしまったことになる

*7:アイドルソングには馴染みがないらしいセリフ(「普段はヒップホップとかハウスとか…アイドルの曲は踊ったことないよ」「ん…アイドルソングが聞こえてくる…。へえ、結構いいね」)も見られる

*8:翌日は酔っていなかったわけだが、本人曰くアイドルになる決断をしたのは「ヤケ」によるらしい(Rの親愛度50達成時のセリフより)

*9:普通にオーディションに受かったりスカウトされたりするもの以外に、「オーディションには落ちたが、その後プロデューサーによってスカウトされるもの」「オーディションには落ちたが、その後に受験者側からプロデューサーへ直談判がなされ、結果的に採用が決まるもの」「スカウトはされるが後日オーディションに来るよう言われるもの」「プロデューサーがスカウトする前に、向こうから話しかけきて押し切られてしまうもの」などのバリエーションがあり、基準を考えるのが面倒になったため